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理想と現実とのギャップ

私大の客観形式の問題を解かせていると、教える側は生徒が半分しかできていなくとも、逆に8割できていても、「そんなもんだろう」と捉え、結果を見るだけで終わりかねない。

ところが、記述式の答案で、しかも「説明せよ」などという、必ずしも下線部和訳のような「英語→日本語」の厳密な訳が求められていないところで、とんでもない誤解をしていることに気づかされると(「誤解」というよりも、単に理解していないだけで、試験だから苦し紛れに解答を書いたというものも、少なくないだろう)、ちょっと待てよ…という話になる。しかも、それが超長文と呼ばれるような1,000語程度(あるいは、それ以上)だったりすると、いっそのこと、超長文なんて止めたら? と思えてくる。

大学入試に限らず、最近の英語の資格試験の対策本でも、「短時間で情報を的確につかむ訓練が必要」などと書かれているのをよく目にする。が、そもそも日本語でもそのような読み方ができない[かも知れない]者に、英語で書かれたものを「短時間で情報を的確に」などできるのか

第一、日本語にせよ、英語にせよ、情報を検索するかのようにさっと読まれるタイプの文章もあれば、ものによっては(例えば、心理学や言語論など)、じっくりと考えながら読むべきものさえある。

英語の資格試験は、それと分かって受験するのでまだしも、大学入試においては、ほとんどの生徒が入試で課されるものだけに、出題者には「本当にその長文でなければならないのか」ということを考えて頂けると有難い。

ウチの大学に入りたければこれくらい読めなければ駄目、という要求があるのは理解できるが、多くの場合、生徒はそのレベルにまで届いていない。「生徒の英語力を上げなければならない」とか、「グローバル時代には当然の要請」などという理由で現状見られるような入試問題が作成されているとしたら、目の前にいる生徒(必ずしも自分が教える生徒とは限らない)のレベルとの間に、あまりにも差があると言わざるを得ない。
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